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2011年8月25日

念仏ばあさん

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私の実家は、特定の信仰を持っていない環境下にあったため、私は神仏について深く考えることもなく生きてきた。

でも、当たり前のものとして、海や自然、地球上にあるすべてのモノの中に神があると信じているし(自分の中にも)、仏様やご先祖様が天(?宇宙)にいかれるものと、感じている。

だから、沖縄の自然崇拝や祖先崇拝は、ごく自然に受け入れられ、そのカタチ(地域それぞれの年中行事のやり方など)を撮影(取材)しながら、自身がいろんなことを教えてもらったり、確認している。


子供の頃、お墓を怖い場所と感じていたけれど、沖縄では、ご先祖様と一緒に、ピクニックのように、ごちそうを食べたり、歌って踊って・・・お墓の前でするので、なおさら明るい空間と捉えられるようになり、その偏見は完全に消されてしまった。
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それに、命を生み出すことにより、生と死が表裏一体であることを体感し、死に対する恐怖が無くなったからかもしれない。
海の仕事(好きな仕事)を始めた時の「好きなことしているんだから、死んでもいいや(仕方ない)」という死に対する考え方とは、ずいぶん違った克服。
(子供を残して、死ねないけれどね)

海という「板子一枚下は地獄」という環境で仕事をしている海女さんたちは、やはり神事深い。
そして、仏様を大切にする。
盆の入りもとても早く、昨日がお盆最後のお送りの日。
念仏ばあさんと呼ばれる、ある一定の年齢に達した女性達(職業ではない)が、その間毎日毎日、念仏を唱える。

その歌うような念仏の音色に包まれていると、
それは懐かしい響き。

どこか似ている・・・

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フッ・・・と、宮古島のツカサと呼ばれる女性たちの歌うアヤグ(神歌)を思い出した。
ツカサも、ある一定の年齢層の神職でない一般の女性たち。(主に、海人=漁師を夫に持つ女性)

人間の口、喉、全身から、天に向かって奏でる時、同じような音となるのか?

音を捉える私の身体が、その場所にいるから、そう感じたのか?
私の全身を覆うプロテクターである、皮膚。
皮膚は、触覚の他、痛みや圧力、冷たい熱い、いろんなモノを感じる。

歌を奏で、空気が動く時、私の皮膚には圧力が生じる。

海に潜ると「水圧」という圧力を強く受ける。
私は、水圧に包まれる時の安堵感がとても好きだ。
たぶん、私は「圧」に敏感なのかもしれないが、
録音された音を聞くのと違って、その場所で聞くから、感じられる何か、かもしれないが・・・

その共通点が、何か、今は、まだ言葉(脳)で分析できないけれど、
いつかわかるその日が来るのを願う。

「祈り」とは何か。
「生きる」とは?
「潜る」とは?

海女さんを通して、知りたいことは山ほど。
知ることで、解けそうな謎もたくさんあるような気がする。

すっかり秋になってしまった志摩の国。

季節に追われながら撮影し「四季(4つの季節)もあるなんて、そりゃぁ自然に振り回されるよな」と、長らく本州を離れていた私(沖縄に暮らしている)は、あらためて思う。

自然は、心身で感じるもの。そして、当たり前となってしまった場所から、離れることで、気がつく。

さてさて、焦りを力に変えて、がんばるぞっ!

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コメント(1)

いろいろと考えると 原点は単純なところにあったりして。

生きるために、食べるために ただ 海にいったのかな。
獲るのが 楽しくなったかな?
欲がでてきたかな?

お金がないから 海に行かないと、、、、、、、

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このページは、古谷千佳子が2011年8月25日 18:20に書いたブログ記事です。

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