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2011年7月 2日

[カアサン」表現者として

b0701-P1010230.jpg夕食後、突然
「事故にあったら、ルーが母さんを助けるからね」と。

「えっ?!!」
助けてくれる?
2歳児(もうすぐ3歳)から出た言葉。

ふわっと、心があたたまる。

そして、寝しな。
「母さん」
「なーに?」
「母さんの誕生日には、ルーが、カアサン、と(誕生日プレートに)書いてあげるね」と。

すごいっ!すごいっ!

消防自動車ジプタに乗りたいと、駄々こねてる息子が。
「歩けない〜!」と道端に座り込んで泣き真似している息子が。

「◯◯してあげる。」
してもらうのではなく、してあげようと思う気持ちが、いつのまにやら発生してる。

これまでの写真人生。
特殊な場所で、
仕事を通して、感動の連続を得られると思ってきたけれど・・・

自分の支えになるような「思い出」とは違っていた、ということに気がついた。

写真の感動は、直接的でなく、間接的、2次的であるような・・・。
もちろん、本物の感動に違いないんだけれど、

これまでと違った感動を与えられ、その微妙な違いに気がつけた。

私はもっともっと本物(?この種)の感動をしないといけないんだな。
人を思う気持ち、欠け過ぎてたな。(苦笑)
「海」や「写真」という目標を追いかけ続けすぎて、見えなくなっていた物、感じられなくなっていた心身に、気がついた。

大学時代に勉強していた油絵は「一度自分の中で温めたものを、キャンバスにぶつける」
でも、「写真は、それを直接ぶつけられる表現だ」
とこれまで思ってきたけれど、
今、まさに、写真も油絵も同じであるような感覚が生まれてきた。

吸収するための写真撮影以外の、写真撮影。

それは、写真機材を離した場所、時間の中で気がつけるのかもしれない。
機械を手放し、自分の目と肌と、五感&六感をフルに使える場所で。
(海に潜るというのは、やはり特殊な場所で、機材を持っていても、六感まで使いやすい)

これからも、どんどん前進することに変わりはないのだけれど、
「これを支えに生きられる」というくらい貴重な思い出となる体験、時間を、過ごす中で、
「本当に表現したいもの(心)」が生まれてくるんだと。

「青い鳥」は、すぐ近くにいるんだな、と。

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このページは、古谷千佳子が2011年7月 2日 09:17に書いたブログ記事です。

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