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2011年11月 6日

リフレイン ~外苑スタジオOB会

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1997年、私の第3のスタート開始の年。

第1が、実家時代(大学そして短期間の就職時期まで)
第2が、沖縄に移住し、海人(沖縄の漁師)をやっていた海時代。
そして、写真家を目指し、スタジオ勤務した1997年が第3のスタート?
(あるいは第2章第2項?)
それとも、海人写真家になり、がむしゃらに撮影してきた時代が、第2章で、
子供を産んでからが、第3章?

その辺の区切りは、もっと先にならないとわからないが、1997年は、確かに写真家人生のスタートの年だ。

海の仕事から写真業に移行するために、
私が最初に選んだのが「スタジオマン」。
写真機材など、写真撮影について、現場で覚えたい!と思って、沖縄から外苑スタジオに入るために、東京に一時帰国。

ええ~っ、もう14年経っちゃうの~?!
私の写真人生。
(たったの14年?!とも思えるし。不思議な感覚)

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1993年オープンした外苑スタジオ(ブログフォトは、18年のスタジオマンの人物年表)に、私が入れていただいたのは、1997年。
気がつくと古株となっていて、昨夜行われたOB&OG会の中で、最年長の卒業生だった。(笑)

つねに景気低迷状態の私には(苦笑)、大打撃という影響は及ばされていなかったが、
リーマン・ショック、そして311東日本震災で景気低迷に追い打ちをかけられた写真業界(社会全体?)にあっても、頑張っているスタジオ(勤務中のスタジオマン)、そしてそこの卒業生達から、多大な元気と刺激をもらってきた。

ファッションを中心としたスタジオ現場を卒業していくスタジオマン達は、そこで勉強したことを活かした写真業界で活躍するカメラマンとなる。・・・というのが通常の流れで、私の場合、全く違った写真の世界で生きている異質な存在。
けれども、帰れる場所として、受け入れてもらえることに、感謝。

スタジオを卒業し、沖縄に最移住し、写真家として歩み始めた当時の私は、半物々交換状態の生活。沖縄に遊びに来てくれたスタジオマネージャー夫婦に、私は「オジィが海でとってきたばかりの蛸」といって、宿泊先のホテルに持っていったという話は、笑えた。

リーフエッジの海で波に巻かれながら、エビを手づかみで採る海人たちと、夜の海を泳いだり、
40メートル近くの深海を、自らが潜って魚を追いつける追い込み漁師たちと、潜ったり・・・まぁ、普通では立ち入ることのできない危険な領域を体当たりでぶつかるという、私自身すっかり忘れているいろんな過去があったんだな、と海人写真家になってからのいろいろな過去を思い出すと、本当に、貴重な時間を過ごしてきたな、と。

「自分の体で吸収したいものを表現し続ける」

・・・というのが、私の目標(夢)であって、大好きな「海」というフィールドで、憧れてきた「海人」を「写真で撮る」、ということを続けた結果が「海人写真家」。
具体的な職業のカタチがあるわけでない中を「思い」を中心に突っ走ってきて今の私となった。

ピンポイントの職業につく、という目的でなく、模索してきたカタチ。

20代、30代、全く迷いがなかった、と言ったら嘘になる。
立ち止まる、ということは出来ないけれど、不安になって、歩みがゆっくりになった時期もあるし、進んでいる方向が前か後ろか、わからなくもなった。

そんな時どきに、自分がやってきたことが、後押ししてくれた。
具体的に言うと、最初の30分ドキュメンタリー番組「いきいき!夢キラリ
(http://ja.wikipedia.org/wiki/いきいき!夢キラリ)

この時(2005年2月放映。収録は、前年の夏ごろだったかな?)は、沖縄という土地で、海人を撮影し続け、ほんとうに大丈夫なのか、不安だった。
でも、番組依頼があって、それにこたえるように頑張り続けることで、私がこれまで撮影してきた意味ややり方が間違っていないんだと、最確認することになった。

2007年8月に放映された「情熱大陸」の収録の時も、決して、不安がなかったわけでない。
女37歳。さてさて、趣味と仕事と生活と、すべてが「写真」と「海」で、果たして大丈夫なのか?

でも、ドキュメントされるということは、いろいろな質問攻めにもあい、深く自分を見つめ直す機会となり、次なる力となってくれたのだ。

昨夜、OB&OG会で、フリーになったばかりの若手カメラマンたちから、いろんなことを聞かれ、これまでの話しをすることになった。
日常では考えないことを、あらためて振り返り話すことは、過去だけでなく、現在の自分の中にあるものを引き出すきっかけとなる。

私を知らない人に、私の話をする、それは、TVドキュメンタリーであっても雑誌であっても、、普通の会話で会っても、「人」に対して話しているのであり、人に何かを伝えることで、一歩一歩前に進めるのだ。

常に不安定という暮らしが続き、それが普通になって、気がつくと心身ともにタフになっている。
仕事と生活に一杯一杯であるが、好きなものを撮影し、愛する子供と暮らせること。
今、私は、すごく充実していて幸せだ。

課題は沢山ある。

でも、自分の直感を信じて進んできた今が幸せだから、自身を持って前を向ける。

そして、ようやく「表現」について、本当勉強したいな、と思うようになった。
後輩たちの写真や前衛的な写真。
言葉、音楽、絵画、ファッションやアート、写真以外のすべてのすべての表現。
いろんなモノを見聞きして、自分の中にあるものをどうやって出力して言ったら良いのかを学んでいきたい。

今更だが、私の場合は、体験があって、本当に知りたいという気持ちが湧いてくるので、
このくらいの時間(東京を飛び出し、海人をやって、海人写真家になるまで)が必要だったのだ。
もちろん最初から、表現者としていきたいと思ってきたが、
最初の「表現者」として「生きる」、という肩書きではなく、
表現したいことが体内に充満していて、表さないではいられない、という状態。

そんなこんなして、こどもが生まれ、
母と私の、2点が、
息子を入れて、3点になった時、目指す方向が見えてきた。

仕事や私事という世界を超えた、大きな大きな世界。
言葉では捉えきれていないが、地球と私たちの繋がり、時空を超えた繋がりまでも、感じられるようになっているような・・・それを表現していきたいな、と。

自分の道を信じられるようになり、焦らず、ゆっくり歩める、ということは、
自分の思うままにやって来れた20年があるからだ。

自我、から始まったライフワークは、人と人のつながりの中で進むに連れて、
同時に、他の幸せに繋がれば良いと、自然に思うようになってくる。

自分を知ることで他人を知ることになる。
他を見れば、己を見ることことになる。

自他往来。
往来することで、いろんなモノが見えてくる。

陰陽調和の世界を、「影」と「陽」、バラバラに撮影する。

細部の中に、真実があり、いろんな細部を見つつければ、大きな細部を見ていることになる。

自分のできること、やりたいことから、スタートするのでも、与えられた仕事を追求することも、本気で継続していけば、たどり着くところは結局同じなんじゃないかな、と。

ならば、私は好きなところから始めるほうが、いいと思う!

うまく言葉がまとまらないけれど、
皆頑張ってほしいな、と思う。
夢を追うことは、苦しい時もあるけれど、面白い!
もちろん私も、これからだ!

夢を追い求める人たちと話すのは、年齢を問わず、ほんとうに楽しくて刺激的だ。
またいつか、会える日に、負けないような人生を進もうと、あれから数時間たった今、フツフツと考えている。

さてさて、やることはたくさんあって、まずは、何をどうするか、整理するところからだな。

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このページは、古谷千佳子が2011年11月 6日 03:54に書いたブログ記事です。

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